makirenのダイアリ

海外大学生,読書家,翻訳・IT系フリーランス,元躁鬱患者の20歳のブログです。気取っておしゃれで知的に見せるために書いていますが,駄文しか書けないのであまり効果を発揮していない模様です。ご指導宜しくお願い致します。

善意と善行とよいこと

(※タイトルを意味ありげにして,その解説を最初にするというスタイルが昔から好きだった。よくこの気取ったスタイルで賞に入ったりして浮かれていたものなので,ここはこれを堅持していこうかなという所存。)

空海弘法大師)の性霊集(だったはず)には陰徳と陽徳という概念があって,前者は人に見られない徳,後者は見られて多くに知られる徳という意味があった。徳=善行なのだけど,徳は”見返りを求めないよい行い”を意味する。善意は,「相手の心情や環境の変化を求めて(良かれと思って)行いをする」こと。”よいこと”は人に言われたからそうであるみたいな,いわば枕詞になっているクソワードとして書いた。何がよくて何が悪いかは自分で常々考えたいもの。

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 僕は最近自分はコミュニケーションは得意でない割に人にお節介を焼くほうだなと思うのだけど,正直に言って損な性格だなと思うことは多い。魚の取り方も教えて取った魚もやった上に釣り具まで寄越して,自分が得るものはそう長くも続かない縁の延長券と肩透かしな「すごいね」である。*1

 でも別に,実際人が困ってるときに「う~ん,でも助けたところで百害あって一利なし,予定も狂うしなぁ」なんて考えるほど人の心を忘れたわけでもない。

じゃあ何のために僕はそういう行動規範をナアナアに守っているかといえばおそらく自己満足なのだと思う。あなたには何も求めてないですよ,自分がしたいからそうしただけなので,もうとやかく言わないでください,というどこか絶望的というか薄遇的な善意というのが僕の根底にあるかと思う。「助けない」という選択をするかもしれない自分への後悔と恥を捨てるために善行をする。非常に自己中心的に聞こえて,いわゆる”偽善”にも思われなくないだろうが,個人的にはこれが正しい動機なのでは,と思う。名を捨てて実を取るとはいうが,名を得て実も求めるなんてのはおこがましいというのが持論である。

 ”善きサマリア人の法”というものがある。日本のほうには明文化されていないが,コモンローなど諸外国では基本的にちゃんと成立している。

善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws、良きサマリア人よきサマリア人とも)は、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨のである。

 多分,僕と同じくらいの歳の人たちはこんな話を一度はされたと思う。

「中国じゃ,車に轢かれた人を見ても誰も助けない。自分が加害者扱いされるかもしれないから」

聖書の話をそのまま教えてあげればいいのに,なんでわざわざ中国人に擦り付けたんじゃい。とは思うがまあ仕方ない。中国も,サマリア人の法が明文化されていない。

自分の善行が,かえってより悪い結果を生むこともある。恋愛相談なんて特にそうだろう。狙っていなくてもなんだか険悪な雰囲気を自分の助言や手助けが作り出してしまうというのは少なくない。人間は矢張り脆いので,どこか自分以外に原因を求めるし,自分に近い位置にその原因があれば否応にも対応は変わるものである。サマリア人のほうはそういう,近いインターネットのことはさすがにカバーできない。たまたま事故を目撃して人命救助に励んだ見知らぬサラリーマンの権利は保証しても,「私のこと嫌いでしょって聞いてみろ,すぐにわかるよ」って助言した槇島君のことは保護してくれない。(結局その子からはもう3年連絡が来ていない。)そんな恨み節から善人を守ってくれる国もあれば,逆に追及する国もある。*2*3

 こういう歴史的な事実を改めて考えてみると,見返りも求めず,その人のことを本心で助けたいと思い,評価懸念を超克し,できる限りの物的質的なリソースを割いてあげる人々=善人は本当に一握りで,聖人なんだろうなと思う。なれるとは思っていないしなる気もないが,結果的に救われる人が増える生き方をしたいなと思った次第。